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松浦 知也 Matsuura Tomoya 2024-05-22 12:19:11 +09:00
parent 22673da032
commit 011db6df9b
10 changed files with 87 additions and 22 deletions

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@ -8,4 +8,4 @@
"obsidian-git",
"obsidian-local-rest-api",
"obsidian-excalidraw-plugin"
]
]

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@ -1,32 +1,34 @@
{
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@ -48,9 +50,9 @@
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"autoCommitMessage": "[obsidian] vault backup: {{date}}["
"autoCommitMessage": "vault backup: {{date}}"
}

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@ -49,7 +49,7 @@ https://campanthropology.org/2023/02/06/jonathan-sterne-on-his-book-diminished-f
- sexとgender、skinとraceの関係と似たもの
- impairmentをdisabilityの表出ではなく原因/基底としてしまうと、その定義はdiminished faculties減退した能力・・・つまりabilityに基づいたものになり、循環的定義になってしまう
- facultyは単に身体的な能力以外にprivilege的な社会的能力も指している大学の先生のポジションを表すのももちろんね
- [[Julie Livingston]]によるボツワナでのフィールドワークを基にしたimpairmentとdisabilityを分けない"debility"概念
- →これが本全体での主体・客体の話と繋がってて、abilityって結局個人に帰属する能力の話になっちゃうけど、
- 根底の考え方として、impairmentは情報通信などでも使われる概念だが、そういった身体を機械として捉えるアナロジーがボツワナにはない
- 時間経過を伴う病気と障害の違い
- 癌が肺に転移しているステージ4のためスターン自身も病気chronic illの状態ではある[^cancer]
@ -66,13 +66,23 @@ Iris Marion Youngのfeminist phenomenologyの"discontinuous unity"気になる
- 携帯発声増幅器dork-o-phone正式名称はSpokeman Personal Voice Amplifierについて
- 電子機器と補聴器や人工内耳、こういうボイスアンプのようなカテゴリの違い
- 障害を補助する器具のダサさ、需要が少ないことによる高額さとか
-
- そこらじゅうでスピーカーから声が発されている文化であるのに、普段の会話での喋りがスピーカーから発されることには違和感を覚えてしまう状況
- 「声」と「口」が暗黙的に同化していることへの批判
- 声は哲学の理論で重要な位置を占めている(オングとかデリダとか)
- このアンプを使うと、当然だが発音源が口とスピーカーの2箇所になる
- しかし、発音源を口に持ってけば当然ながら口が見えなくなる
- これが人に違和感をもたらす
- では体のどこにつけるか?
- ベルトとして腰につけると、座って授業をするときにできない
- 場合によっては口と目の向きを別々にできたりする
- 慣れると音源の位置は元の口の位置へと同化assimilateしていく
- [[ミシェル・シオン]]が映像の中の音源位置について話していること
- ダサさ(not cool)の象徴Dork
- 4章の耳栓でも似たようなダサさの話がある
- ただ声の大きさが変わったことが、例えば大学で授業をする際、日常で友人と会話をする際の社会的な扱いを変えてしまう
- スピーチアンプについて事前に説明するか、しないかによって反応が変わりうる
- これはマイリティのPassing, Coming outの問題とも並列する
- 結局、声は主体に帰属するのではなく相手や道具との関係性の中で出来上がる
Vocalities:どう訳すか・・・
## 3章
@ -135,7 +145,9 @@ Audile ScarificationScarificationは傷をつけて体に模様を刻んだ
- 当たり前だけど飛行機内の爆音とイズミュージックの爆音によるLoudnessはたとえSPLが同じだったとしても違う意味を生み出すよね
- 耳栓についての話
- 耳を塞ぐことが社会から切り離されることと結びついてきたが、必ずしも巣じゃないんじゃないか
- 耳を塞ぐことが社会から切り離されることと結びついてきたが、必ずしもそうじゃないんじゃないか
- ハイカルチャー(クラシック)よりもサブカル(ロック)の方が耳栓のキャンペーンがなされてる
- 車や銃におけるsafety含む騒音からのと、アメリカ的自由の結びつき
- 初めてのミュージシャン向け耳栓はEtymoticが作ったER-20
- 知らんかった
- HEARHearing Education and Awareness for Rockers

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@ -1,4 +1,4 @@
---
date: 2024-04-08 00:07
---
#person #stub

@ -1 +1 @@
Subproject commit c8f44c6b47ee651b7313122b04bd0e36bfadeded
Subproject commit f552ed066d0e25bc4e6fde663d10c04721243493

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@ -0,0 +1,31 @@
---
date: 2024-05-21 11:54
---
#book
[[難波優輝]]さんのレビューを先に読んでしまったのでそのバイアスはかなりかかっている
[山野弘樹『VTuberの哲学』2024、春秋社書評機能についての不明点と研究態度へのコメント - Lichtung](https://lichtung.hatenablog.com/entry/2024/05/21/000934)
そして、多分私が読みたいのはVTuberの社会学の方だろうという興味があることは前置きとして
---
- この本では個人勢VTuberの存在に多く触れられなかったことが弱点だと書かれているが、私はここは致命的な問題になりうると思った
- "さらに、こうした第三のVTuberこそは、管見の限り、今日のVTuber文化をリードし、数多のトレンドを作り、その文化形成に大きな貢献を果たしている中心的なVTuberである"
- 単に数が多いものを哲学的な定義の中心にするのはどうなん、というのがまずある
- 単に制度的存在として扱えるものに範囲を絞ってるからVTuberは制度的存在である、と言えてるだけの気がする
- (これは私がサールの制度論に明るくないので勘違いしてるかもしれないが)
- 中盤の身体的存在(モデル/アバターと身体の同期)、倫理的存在(配信者とファンの間での応答)、物語的存在という分け方は整理としてはわかりやすいと思う。
- 関係ないが、名取さなが配信中に画面を邪魔しないようにアバターの縮尺を縮める時に痛がる演技をする話がTwitterで流れてきて、身体的存在の議論として面白い話題だった
---
- 難波さんも指摘してるが、最終章の芸術作品としてのVTuberの議論はとりわけ危うい
- 例えばアイドルや俳優の各個人に対して「彼/彼女自体がもはや芸術作品である」と言うのにはいろんなリスクがあると思うが、この本でVtuberを完全に虚構的な存在ではないと扱うのだとしたらそこを無視できない事になるだろう。
- それに、ファンや視聴者との共創で作られる作品の議論は2000年代初頭の古典かつ楽観的UGC論そのままであまりに反省がないと思う。
- ファンとVTuberの共創と言う形で制度としてのVTuberを語るとき、それを動かすプロダクションやYoutubeのようなプラットフォームは透明化される
- これはダントーやディッキーのアートワールドの悪いとこなのでベッカーのアートワールドの方も見たほうがいいと思う
- 結局この本では、商業・経済活動としてのVTuber活動についてあまりに考えてなさすぎると思う。そこに首を突っ込むと主題がVTuberの社会学になってしまうからやりたくないのはわかるが、商業活動として成立していて認知度が高いカテゴリを暗黙的に中心的存在として扱うのは誠実な立場ではないと思う。
- ビデオゲームの美学では名前の定義からアナログゲームは弾くけども、インディーゲームを弾くことはないわけでしょう
- 特に、この本で中心になるホロライブやにじさんじのような事務所を考えると、例えばカバー株式会社は[社員400人ちょい](https://cover-corp.com/company)で80人程度のライバーを抱えているわけで、それがファンダムによるイラストや曲を活動の中に超積極的に取り込んでいる姿は微笑ましくもあるものの、労働の搾取ではという思いを拭いきれないアンビバレンスが自分の中にある
-

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@ -0,0 +1,11 @@
---
date: 2024-05-21 12:04
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#notion
[[アーサー・ダントー]]や[[ジョージ・ディッキー]]の方が有名だが、[[ハワード・ベッカー]]の方が個人的には好き
[SEP芸術の定義 - Lichtung](https://lichtung.hatenablog.com/entry/2017/09/30/170505)
[芸術と日常生活の和解-アートワールドの可能性とその限界- 武山梅乗](http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/15790/kjs035-02.pdf)

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@ -13,6 +13,8 @@ date: 2024-04-02 15:37
- [M.Hiroi's Home Page](http://www.nct9.ne.jp/m_hiroi/index.html) [^kazbo]
- [EMANの物理学](https://eman-physics.net/)
- [線翔庵](https://senshoan.main.jp/index.html)
- [塩川伸明ホームページ](https://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/index.htm)
-
- 完全に個人じゃないけど[生存学のarsvi.com](http://www.arsvi.com/)
## 参考

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@ -5,18 +5,23 @@ date: "2024-01-19T13:19:40+0900"
https://campanthropology.org/2023/02/06/jonathan-sterne-on-his-book-diminished-faculties/
> **Toni Nieminen:** **Your book can be posited as an auto-ethnographic account in that your own experiences of living with cancer have shaped and enabled you to think about experience in a fragmented way, whereby change and contingency become the point of departure in experience and perception. Considering some criticisms of auto-ethnographic writing (who gets to say what, when and why), do you reserve impairment phenomenology for those living with impairments, or is it accessible also to the non-impaired? If so, how does the project change in the process? Further, and this is something you gesture towards in the concluding handbook, do you think that impairment phenomenology can be used as a research tool across disciplines?**
> **あなたの本は、あなた自身のがんとの闘いの経験が、経験と知覚の出発点となる変化と偶発性を形成し、断片的な方法で経験について考えることを可能にしたという点で、オートエスグラフィーの記述であると仮定することができます。オートエスグラフィーの書き方に対する批判誰が、いつ、何を、なぜ語るのかを考慮すると、Impairment PhenomenologyはImpairmentとともに生きる人たちのためにあるのですか、それともImpairmentのない人たちも利用できるのですかもしそうなら、その過程でプロジェクトはどのように変化するのでしょうかさらに、これは結論のハンドブックであなたが示唆していることですが、Impairment Phenomenologyは分野を超えた研究ツールとして使えると思いますか**
> **Jonathan Sterne:** This is a fantastic question! I think about this a lot. Who can and should write about impairment and disability? Anybody can. More people should. All are welcome. But as the saying goes, “nothing about us without us.” Writing about disability starts with reading work in disability studies. There is an awful lot of sanctioned ignorance among ableds, which is how you get neo-eugenic access policies and disability simulations, as well as scholarship that uses or engages with disability from an ableist frameworks. So, the first step is struggling to overcome that sanctioned ignorance.
> [!Original]-
> **Toni Nieminen:** **Your book can be posited as an auto-ethnographic account in that your own experiences of living with cancer have shaped and enabled you to think about experience in a fragmented way, whereby change and contingency become the point of departure in experience and perception. Considering some criticisms of auto-ethnographic writing (who gets to say what, when and why), do you reserve impairment phenomenology for those living with impairments, or is it accessible also to the non-impaired? If so, how does the project change in the process? Further, and this is something you gesture towards in the concluding handbook, do you think that impairment phenomenology can be used as a research tool across disciplines?
> 素晴らしい質問ですね私はこのことについてよく考えます。誰がimpairmentやdisabilityについて書けるのか、また書くべきでしょうか誰にでもできます。もっと多くの人が書くべきです。誰でも歓迎です。しかし、諺にもあるように、"私たちなしには私たちのことは何も語れない"。障害について書くことは、障害研究の仕事を読むことから始まリマス。新優生学的なアクセス政策や障害シミュレーション、能力主義的な枠組みから障害を利用したり、障害に関与したりする学問が生まれるのはそのためです。ですから、最初の一歩は、その公認された無知を克服するために奮闘することなのです。
> 素晴らしい質問ですね私はこのことについてよく考えます。誰がimpairmentやdisabilityについて書けるのか、また書くべきでしょうか誰にでもできます。もっと多くの人が書くべきです。誰でも歓迎です。しかし、諺にもあるように、"私たちなしには私たちのことは何も語れない"。障害について書くことは、障害研究の仕事を読むことから始まります。新優生学的なアクセス政策や障害シミュレーション、能力主義的な枠組みから障害を利用したり、障害に関与したりする学問が生まれるのはそのためです。ですから、最初の一歩は、その公認された無知を克服するために奮闘することなのです。
> I dont think there should be a passport for writing about anyone, but there is a responsibility to the group you are studying, and a moral requirement of social solidarity if you are in a privileged position with respect to them. In the humanities this is often personalized around the charisma and ethos of the intellectual—as in, to be wrong is to be morally deficient. I hate that, but I also understand it. For disabled people, the emotional stakes can be amplified because the personal and political are commingled, and we are so often represented by others against our will, especially in institutional contexts. Our challenge as scholars is to resist this impulse to completely personalize position-taking, while being attentive to the fact that universities and the field of academic writing are very ableist spheres, which often crowd out and systemically exclude disabled people. Right now in universities, we have a situation where most of the claims to putative expertise on disability come from nondisabled people. We have to ask how such a fucked-up result came to pass and what it will take to transform that situation. We need to deal with this in concert with other challenges our institutions are facing around their ongoing racist, colonialist, cis-sexist, and heterosexist histories. It is perennially unfinished work.
> [!Original]-
> **Jonathan Sterne:** This is a fantastic question! I think about this a lot. Who can and should write about impairment and disability? Anybody can. More people should. All are welcome. But as the saying goes, “nothing about us without us.” Writing about disability starts with reading work in disability studies. There is an awful lot of sanctioned ignorance among ableds, which is how you get neo-eugenic access policies and disability simulations, as well as scholarship that uses or engages with disability from an ableist frameworks. So, the first step is struggling to overcome that sanctioned ignorance.
> 誰かについて書くことにパスポートが必要だとは思いません。しかし、自分が研究しているグループに対する責任や、彼らに対して特権的な立場にある場合には、社会的連帯という道徳的要件があります。人文科学の分野では、これはしばしば知識人のカリスマ性やエートスの周りに個人化されます。私はそれが嫌いだが、理解もできます。障害者にとっては、個人的なものと政治的なものが混ざり合っているため、感情的な利害が増幅されることがあります。研究者としての私たちの課題は、大学やアカデミック・ライティングの分野が非常に健常者主義的な領域であり、しばしば障害者を排除し、組織的に排除しているという事実に注意を払いながら、立場を完全に個人化しようとするこの衝動に抵抗することです。今、大学では、障害に関する専門知識を主張する人のほとんどが、障害のない人たちであるという状況があります。私たちは、なぜこのようなめちゃくちゃな結果になったのか、そしてこの状況を変えるためには何が必要なのかを問わねばなりません。人種差別的、植民地主義的、シス性差別的、ヘテロセクシスト的な歴史が現在も続いていることをめぐり、私たちの組織が直面している他の課題と協調して、この問題に対処する必要があります。それは永遠に未完の仕事でしょう。
> As I mention above, I dont use the label auto-ethnographic for _Diminished Faculties_, though Im also a believer in Barthes “author is dead” thesis, and others will categorize me as they like and Im fine with that. My resistance to the term is that I think all ethnography involves the position of the ethnographer (so ethnography without a reflexive turn on the ethnographer is bad ethnography). Theres also a systematicity and intentionality to ethnographic research thats absent in _Diminished Faculties_. Its a very fragmented text both in terms of subject matter and method.
> [!ORIGINAL]-
> I dont think there should be a passport for writing about anyone, but there is a responsibility to the group you are studying, and a moral requirement of social solidarity if you are in a privileged position with respect to them. In the humanities this is often personalized around the charisma and ethos of the intellectual—as in, to be wrong is to be morally deficient. I hate that, but I also understand it. For disabled people, the emotional stakes can be amplified because the personal and political are commingled, and we are so often represented by others against our will, especially in institutional contexts. Our challenge as scholars is to resist this impulse to completely personalize position-taking, while being attentive to the fact that universities and the field of academic writing are very ableist spheres, which often crowd out and systemically exclude disabled people. Right now in universities, we have a situation where most of the claims to putative expertise on disability come from nondisabled people. We have to ask how such a fucked-up result came to pass and what it will take to transform that situation. We need to deal with this in concert with other challenges our institutions are facing around their ongoing racist, colonialist, cis-sexist, and heterosexist histories. It is perennially unfinished work.
> 私はバルトの「作者は死んだ」というテーゼの信奉者でもあるし、他の人が私をどうカテゴライズするのも構わないものの、前述したように『Diminished Faculties』にオート・エスグラフィックというラベルは使っていません。私がこの言葉に抵抗があるのは、すべてのエスグラフィーはエスグラファーの立場を含んでいると思うからですだから、エスグラファーへの反省的転回を伴わないエスグラフィーは悪いエスグラフィーになります。また、エスグラフィーの研究には体系性と意図性があるが、『_Diminished Faculties_』にはそれがありません。主題と方法の両面において、非常に断片的なテキストです。
> 私はバルトの「作者は死んだ」というテーゼの信奉者でもあるし、他の人が私をどうカテゴライズするのも構わないものの、前述したように『Diminished Faculties』にオート・エスグラフィックというラベルは使っていません。私がこの言葉に抵抗があるのは、すべてのエスグラフィーはエスグラファーの立場を含んでいると思うからですだから、エスグラファーへの反省的転回を伴わないエスグラフィーは悪いエスグラフィーになります。また、エスグラフィーの研究には体系性と意図性があるが、『_Diminished Faculties_』にはそれがありません。主題と方法の両面において、非常に断片的なテキストです。
> [!Original]-
> As I mention above, I dont use the label auto-ethnographic for _Diminished Faculties_, though Im also a believer in Barthes “author is dead” thesis, and others will categorize me as they like and Im fine with that. My resistance to the term is that I think all ethnography involves the position of the ethnographer (so ethnography without a reflexive turn on the ethnographer is bad ethnography). Theres also a systematicity and intentionality to ethnographic research thats absent in _Diminished Faculties_. Its a very fragmented text both in terms of subject matter and method.

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@ -43,6 +43,8 @@ date: "2024-02-05T12:49:01+0900"
[[東京大学「ボーカロイド音楽論」講義 - 鮎川ぱて]]
[[vTuberの哲学 - 山野弘樹]]
### 読みたいものリスト
[[サイボーグになる - キム・ウォニョン、キム・チョヨプ]]