--- date: 2024-04-04 16:35 --- #book にほんのうた 音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史、[[みの]]著、2024年、KADOKAWA 本人による動画シリーズ [邦楽通史解説 - YouTube](https://www.youtube.com/playlist?list=PLvnMM0grbLzzMMUxzl8e3khI2v7g9dQs-) (2024/04/20)著者主催の討論イベントがあり、行って話した中での感想を追加。このメモ帳はあまり履歴ごとの更新をしない運用なので、差分はview historyから飛んでみてほしい --- ## 反応 [[細田成嗣]]さんによる批評 [https://x.com/HosodaNarushi/status/1769779522939891895?s=20](https://x.com/HosodaNarushi/status/1769779522939891895?s=20) その後の動画 [「邦楽通史」はなぜ炎上したのか - YouTube](https://www.youtube.com/watch?v=vVxKnLdDfyw) ## 感想 - すでに細田さんはじめ、色んな人に指摘されているが、引用の番号が振られてないので、どこまでが一次資料でどこからが二次資料の引用なのか、そしてどこからが自説の開陳なのかが区別がつかない - もちろん、全ての項目に逐一どの文章から引いてきたのかを明示するのは大変だし、ページの量も増えるし、その分価格が上がって敷居も上がり読みづらくなる - 広く浅くを極めるのであればこの形に落ち着くのはわからないでもない - が、やはり日本の音楽通史という壮大なプロジェクトの議論のたたき台として使ってもらうなら、(特に二次資料として個別の文献を編纂してきた)先人へのリスペクトは大事 - 多少荒っぽくても議論の種を作るのがまず大事という思想であれば、イントロで批判しているジュリアン・コープ「ジャップ・ロック・サンプラー」と同じ穴のムジナではないか - 自説の検証作業をより個別の専門家に半強制的に嘱託することにならないか - そもそも統一した日本の音楽史のコンセンサスがないので議論出来るきっかけを作ろうというならシンポジウムや研究会を開けばよい - 本はどうしても持続性の強いメディアなので、いっぺん出たものは残ってしまう - 教科書を作ること、歴史書を作ること、入門書を作ることは自説を強く主張する論文よりもむしろ強烈に政治性を持つというのが、おそらく著者と編集者と読者と評者の間で共有されてないのでは > 『にほんのうた 邦楽通史』 実はそこそこ大胆な自説を若干数含むんだけど、まだバレてない。 > [https://x.com/lucaspoulshock/status/1768608448231723084?s=20](https://x.com/lucaspoulshock/status/1768608448231723084?s=20) →普通に「ここが自分にとってはオリジナルな自説です」というのを開示した上で話す方がよかったです。 (追記:どの辺が、というのは桑田佳祐モデルとしてのJ-POPやヒップホップのあたり、ぽい。) - でも、実際の「広さ」は確かに圧巻だし、細川さんにもできない仕事をやっているし、自分も参考になる話題がたくさんあった。第2章は高校生向け近代日本音楽史入門として普通に良いと思う。 - 前から順番に読書会形式とか講演会形式で聞いたら結構楽しいと思う。 - というか、動画の解説シリーズで十分それができているし、今日「歴史を書く」という作業をする中でYoutubeで動画出すこと自体が本書くよりも機能してるのでは?とも思う(もちろん、検証の可能性の問題は残るけども) - ディスクガイドもいいけど、参考文献表とは別に、この本の次に読む本のブックガイドがあったらよいのではないか - 引用の対応関係がわからないことのもう一つのデメリットはとして、多々ある参考文献の中でどれを執筆時に重点的に参考にしたかが完全にわからなくなることがあります - (追記)あるいは、どの順番でこの本を書いていったというメイキングとか。 - 参考文献が五十音でなくランダムに並んでるので、これが重要度の順番ということかもしれない。 - →どうも出版社順?らしい。著者本人もあんまりわかってないとのこと。 - (追記)知人からの指摘で、タイトルの「音曲」は~~参考文献で一番最初に挙げられている[[創られた「日本の心」神話 - 輪島祐介]]で提起された~~ 概念そのもの。 - 間違えた。「昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲」(2023)で中心に据えられたもの、ですね - ~~ただこの単語についての説明は本文中に出てこない。日本の音楽を単に西洋から輸入された音楽観だけでなく、また録音音楽だけに限らず文脈づけるための言葉が(特に後者において)本書で機能していない。~~ - すみませんこれもあった(p45)。なんであえてタイトルに使ったか?はわからないままだけど - 全体的にこれを通した編集がどうかと思う - (追記)まあでも「作られた『日本の心』神話」とかも参考文献形式とかこれに近いと言えば近いんだよな。めちゃくちゃでかい新書だと思えばそんなもんなのかもしれない。 ---この辺からあまり賛同する人がいるかわからない話--- - そもそも、現在においてあるカテゴリの膨大な量の通史を、書籍というフォーマットで、個別の事実のインデックス以外の目的で編纂する意義を実はそこまで感じない - 細川周平「近代日本の音楽百年」も川崎弘二「日本の電子音楽」も、巨大な辞書としての性質が強いので、死ぬほど分厚くリファレンスも一次資料が多く、追跡可能なのはインデックス的に使うため - 浅く広くある日本における音楽の流れを捉えるための視点をいろんな人に提供したい、ということであれば、「どの視点で見ているか」を中心に据えればよく、通史を名乗る必要はない - 実は本著ではイントロで結構明確に示されている - "様々な資料で下調べをするなか、邦楽史にとって根底を揺るがすターニングポイントは、明治時代であると確信した(p11)" - 動画の解説を見ていても、結構やろうとしていることは日本音楽を(ややマイルドに)ポストコロニアルな視点で捉えようとしているのでは、と読めた - 実際第4章後で「戦後の旧植民地での大衆音楽」という寸評で朝鮮や台湾における入植者としての日本という視点も挟まっている - (追記)ただしここ、結論で「でも日本も雅楽とかで大陸から持ち込まれた音楽のもと発展してるから」というどっちもどっちで終えてしまってるのは良くないと思う。ヨーロッパの帝国主義に日本が乗っかって以降の一方的な支配関係にある国同士の文化の輸入出はそれ以前と分けて考えるべき。 - この辺の輸入された音楽観と日本国内で培われた独自性、のような対立が昭和や平成以降できちんと機能していないので、後半に行くほど歴史的イベントの羅列になっていく - そして一応、ゴールは第7章序盤で示されている - "J-POPは、伊澤修二率いる音楽取調掛による改革以降、揺れ動いてきた日本人の音楽観が一二〇年以上をかけてようやく着地した地点ともいえる"(p397) - が、ボーカロイドについての言及で7章は終了し、全体の変遷の振り返りとかがなく終わってしまうのはかなり勿体無いと思った - 自分の専門に引きつけて言えば、日本の電子楽器産業についての言及に関してで - 音楽通史という中で日本が電子楽器でさまざまな成功を収めてきたことや、カラオケ文化などに触れられてるのはよいことだと思う(過度にアーティスト中心主義でない) - 一方、日本の楽器産業が成立したのはそれこそヤマハが明治期にオルガンという西欧楽器の製造で始まったこととかも含めて、メインの主張の中でもっと話されてもよいと思う。 - 独特の電子楽器の誕生とは並列してエレキギターのグレーな安物クローンモデルの製造があったこととかも。ある意味では欧米文化の再生産もしてきているわけなので。 - 電子音楽の話し方全体で言えば、電子音楽の起源としてシュトックハウゼンやシェフェールという作家の名前を挙げることよりも、BBCやNHKの電子音楽スタジオの話やRCA、モーグなど企業を中心に話したほうが社会的背景との接続はうまくいくように思う。 - 結局、作曲家、実演家を中心にしないと膨大な通史が書けない、というのがそのまま大衆音楽という概念の成立条件を示すことになっている - 前半はいくつか歌詞が引用されてそこから時代背景を読み解く表象分析っぽい書き方があるが、後半に行くにつれ井上陽水「傘がない」以降は出てこなくなる - そういった質的分析をする書き方でない部分は、「注目を集めた」「成功を収めた」「影響を与えた」という量的な書き方が中心になる。 - そうなると、ノイズやアンビエントなど、メインストリームでないジャンルについての記述は既存の批評の編纂になる。(p353~357) - 日本のアンビエントが海外からの批評で規定されてきている話は、そういう意味でかなり自己言及的な構造になってしまっている - (追記)これに関しては、歌詞引用のJASRAC問題のハードルが大きいという話をしていて、まあなるほどとなった - そのほか気になったところ - プログレの項(p332)で「一柳慧作曲オペラ横尾忠則を歌う」 や小杉武久のタージマハル旅行団が紐づけられてるのは正直こういう通史でもないと書けないし、結構新鮮に感じた - が、「当時のロックに漂っていた自由で実験精神旺盛な気風は、ロックミュージシャンに限らない広範囲の芸術家を惹き寄せ」たからこういう作品が出てきたかと言われれば、絶対そんなことないでしょと思う - あえて紐づけるなら、60年代の冷戦時代が、一方ではテクノロジーによる人間の進化という風潮をもたらしロックで言えばプログレに反映され、他方ではベトナム戦争への反戦運動、官僚的テクノロジーからの脱却という運動の一部として次の項で書かれているパンクが位置づけられるのであって、一柳や小杉のようなフルクサスど真ん中の人たちはどちらかといえばパンク寄り(反形式)ではないだろうか - 日本の作曲家で言うとあんまり思い当たらんけど、ブーレーズやクセナキスがプログレに位置付けられるなら、まあわかるかも。武満徹かな - こういうところで、これが著者の自説なのか他にそう位置付けた人からの引用なのかがわからないと、困るんです - ここに関してはわりと自分で書いたパートとのこと --- - さらに討論会前後で読み返して思ったこと。いくつかは討論会でも直接話した。 - 音楽取調掛の[[伊澤修二]]が[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]の開発した視話法を、自身の英語の発音および他多く(曰く五千人以上)の吃音の矯正に用いた部分(p94)は知らなかった。近藤雄生「吃音」あたりに書いてあるのかな? - [[どもる体 - 伊藤亜紗]]の序章に伊澤の吃音治療について言及あるな - この、電話やフォノグラフの発明の裏に音楽=聴覚という図式を作り出したオーディズム・エイブリズムの思想が関わっている話と、伊澤が日本の音楽は西洋の音楽で表すことができる、吃音は「治す」ことができると考えていたつながりはすごく大事な部分。植民地主義と障害の医療モデルのつながりと言ってもいい。グラモフォンの解説のページ(p 187)まできちんと文脈を繋げて話せそうな部分。 - 「なぜXXXが入ってないのか」はキリがないので意味がないことだとは思うが、平成以降で海外から見た日本のパブリック・イメージを戦略的に利用したアーティストといえば、椎名林檎(東京事変)と星野源は避けて通れないのでは、と思ったので入ってないのは不思議だった。 - 直接聞いたら「言われてみると確かに何で入れなかったんだろう、もしかするとこの本での結論としてのJPOP観と合わなくて入れなかったのかも」的なお答え - 確かに、ある意味ではその戦略にも関わらず欧米よりは国内でウケる方向ではあったし。 - 討論の中で、結局ヒットの枚数どうこうみたいな語り方をしないのならサブカルチャー的なものの扱いをどう描くの?という話があったけど、後々考えるとこれは実は大御所のサポートやプロデュースをしているスタジオミュージシャンを軸にすると良いのかもと思った。つまり、長岡亮介。(しかも、本人はめちゃくちゃカントリー畑出身というのもあって色々考え甲斐のあるテーマだ) - あるいは、石橋英子、ジム・オルーク、最近のKoji Nakamuraなんかもポップスとエクスペリメンタルを行ったり来たりしてる人として考えやすいかな。ちょっと自分の領域に寄せすぎだけど - くるりの岸田繁とかはわりと持論がある方だろうし、海外の/日本の文脈を取り入れる上ではこれまた考える必要がありそう。 - いわゆるレコードやCDに乗らない音楽文化という意味では、プレイする音楽という意味で軽音楽・吹奏楽のような学校・部活カルチャー、大学の音楽サークルの動向とかは話せることがありそう。 イカ天〜バンプ〜RADWIMPS〜閃光ライオット〜DATSとかWONKみたいな2010年代以降の大学サークルで結成されたバンドとか?誰か既にやってそうだけど。 --- - 色々言いつつ、このメモ自体があんまり厳密な検証になっていないこと自体は申し訳ない - たまたま同時に読んでいた[[リサーチのはじめかた - トーマス・S・マラニー、クリストファー・レファ]]に面白い例があったので、ここに貼っておく ![[リサーチのはじめかた - トーマス・S・マラニー、クリストファー・レファ#資料は自分を弁護できない(p153)]]