--- date: "2023-10-17T07:02:12+0900" --- #book 2023年 BNN新社 https://bnn.co.jp/products/9784802512541 一般社団法人 [[公共とデザイン]] 著 (一部はAMCでの講義「メディア特論 アート+」でのトークのテーマを練るためのメモです) ### 質問 1. デザイン連合、軽いコミュニティのような小規模の連帯がこの本の中での重要な部分だと思う一方、デューイは一方で「一人で早く行く」的な経済合理性に任せた思想を、あくまで個人主義と自由主義を掲げる立場から(それらは"古い"個人主義である、という形で)否定してきています。 > あらゆる行為は、新たな選択決定を要求する新しい視野を創出する。長期的にみて個人が事故を見失っているように見えるとすれば、それは彼が無責任であることを選んだからである。そして彼がまったく意気阻喪の状態にあるとすれば、それは彼が安易な寄生の道を選んだからである。(p108, "[[新しい個人主義の創造]]"(1930)- アメリカ古典文庫13 ジョン・デューイ 1975年 に収録、[[明石紀雄]]訳) この辺の文章は結構厳しいこと言うなあと思いつつ、私たちはこの10年くらいで過度なつながりによるダメな連帯のようなものも目撃してきたわけで、雑な連帯の前には責任ある(そしてできればなるべく以上で尖った)個人の成立が必要なのでは、という直感もあります。クリエイティブ・デモクラシーを実現するための個人のあり方はどうあるべきなんでしょうか。 2. 芸術との接点について。本の中で紹介されているライフプロジェクトや、 「産まみ(む)めも」のようなプロジェクトはソーシャリー・エンゲージド・アートやリサーチベースドアートの作品とも通じる部分が多くあると思います。デザインの分野でいうとスペキュラティブ・デザインやクリティカル・デザインも同様の議論があると思いますが、それぞれの領域との違いや距離感をどう考えますか。 - 芸術がギャラリーから日常生活へ進出する動きとしてはハプニングやフルクサス、シチュアシオニストのような運動が挙げられますが、それらは日常へ異物として介入するものであって、別の方向として本当に日常の一部になってしまう、という方向もあります。これはデューイの芸術教育の思想とも近いのでその辺りも関係した話ができそうです 3. テクノロジーとの関わりについて。SmartCitizenKitの例は実践の要素を強めた一種のサイエンス・コミュニケーションのプロジェクトでもありますね。これに似たような事例は他に、特に日本国内では何かあったりしますでしょうか。 - ところで「Speculate Everything」でダンとレイビーはデザイナーと科学者の協働について、次の4つの関わり方を挙げていました。 - Design about Science(科学研究から生じる問題や影響について、デザインを通じて考察する) - Design through Science(デザイナーが多少たりとも科学を実践する) - Design for Science(科学研究を伝えたり、わかりやすく説明したりするためにデザインを用いる) - Design with Science(デザイナーと科学の真のコラボレーション) - この例をクリエイティブデモクラシーの中に当てはめて考えると、実は「科学研究の当事者がデザイナーになる」というのもあり得るのかな、とか思いました。 - (最初の個人の話に戻るのですが、)人間一人が一生に学べる知識の量に限りがあると思うと、特にテクノロジーが関わる分野ではある一定以上専門化された知識で作られるインフラに関しては、だれかに委ねるしかない、というところから公共性が生まれてくる(そして、一度形作られたら後戻りが難しい)と思います。この辺の、専門知に対するアプローチってどうすればいいんでしょうね(結論なし) --- 話のネタとしては、芸術との関わり(デューイと鶴見俊輔とか)と、テクノロジーの関わり(人工知能と労働問題、政治意思決定問題)あたりが良さそう。あとは年間テーマの過去を振り返ることと未来を想像することとの接点 1章 クリエイティブデモクラシー - 美術大学で教わる社会との関わりって結局「作品を作る」「選挙に行く」「デモに行く」以上のことがわかんなくなりがち - [[Critical Fabulation - Daniela Rosner]]ではIndividualism(個人主義)が既存のデザインのDominantな価値観として挙げられていて、ここの起源はデューイの「[[新しい個人主義の創造-ジョン・デューイ|新しい個人主義]]」にあるとしている。この辺と民主主義における連帯の捉え方はデューイ的にどうなんでしょうね - 労働を複製するメディアとしてのコンピューター(バベッジ→マルクス)と、我々の生活が社会を形作るという話は最終的に直結する話のはず - 『プラグマティズムは、「正しさ」とはそもそも何なのかを問い直す思想とも言えます』 - 真理を証明することは不可能だが、やったことが期待通りの結果ならそれは真理になる - これは、のちの「[[Science of the Artificial- Herbert Simon]]」のフィードバックにより社会を正しく導くサイバネティクスっぽい価値観に取り込まれかねないよねえ - 間違いの許容をしなければ、という - 「ライフプロジェクト」という活動単位への名付けが面白い。これは非祝祭を指向する現代アートの活動とかなり重なる部分があるのではないか 2章 ソーシャルイノベーション - やっぱり[[Wicked Problem]]だよねえ - これと[[自己反映性]]の話はしたいところ - 個人のリーダーシップからマルチステークホルダー - トランジションデザインとの関わり(時間のスケールの長さ) - ロンドンのリンマス・ロードでの自家発電 - ソーシャルイノベーションの5つのスケールの話。これはあまり考えたことなかったな 3章 イネーブリング・インフラストラクチャ  - これもいい命名 - 庭の手入れ、そして土を作ること - キッチンというインフラ [[エツィオ・マンズィーニ]]へのインタビュー 「オルタナティブがオルタナティブであり続けることの問題意識」 芸術側からの視点で言うと、汚さや暴力性がこういうアプローチの中にどう関われるのか、ということを思ったりした